昭和五十三年八月十一日 朝の御理解
   

御神訓 

一、何を食うにも飲むにも ありがたくいただく心を忘れなよ。
一、体の丈夫を願え。
一、体を作れ 何事も体がもとなり。


確かに、何をするにも健康を害しておっては、どうにも出来ません、そのためには、愈々体の丈夫を願はなければなりません、体の丈夫を願うからには、何を食うにも、飲むにも、有り難く頂く心を忘れなよ、と反対によんで見ました。 
この順序を何をするにも体がもとである、だから、どうでも体の丈夫を願わなければならない、体の丈夫を願うからには、願うからには、一つの条件とでも申しますか、願うからには、何を食うにも、飲むにも有り難く頂く心を忘れなよ、とここのところを忘れんで実行していくならば、体の丈夫は約束されるでしょうね、まず、何というても体が元気である健康であることが一番有り難いことですよ、と、ならそれを願わなければならない、ここで、五つの願いの中にね、第一番に体の丈夫を願え、願うからには、その条件としてです、栄養になるものを取れよとか、その為にはこういう頂き方、こういう食べ方があるが、という風には、云っておられません。
問題は、有り難く頂く心そのものが、体の丈夫の元になるのであり、所謂、純信心から云われるところの、所謂食物訓であります。ここをよく合点して参りますとです、その体と心の調和と、体と心、心が健全であれば、又、体も健全だという風に云われます、ですから、ここ辺のところをよく分からせて貰いますと、金光教の信心の云うならば、進め方、信心を愈々自分の信心に、いわば、血に肉にしていくという、一つの根本原理、でもあるわけです、だから、これを言葉を変えると、体を創れ体が元なりと、まず心を創れ、心が元なり、所謂、心一つですべてを創る、と云われるのですから、まず心を創れということになるのです。
体の丈夫を願えと、愈々自分の心が、どのような場合であってもありがたい、所謂、わが心を崩すなよ、愈々自分の心が全てのことを受けても、どいうことを云うなら、受けても、愈々心が生き生きと、神様へ向かっていく心を願えよと、そういう心の健全、云うなら自由自在に、有り難いという心が使えるようになることの為に、愈々、もって成り行きを大事にしょう、成り行きそのものが神の働きだと、そこんところがなにを食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよと。
何が何でも起きてくる、自分にそれが求められるものであるなら、云うならば自分の前に並べられた食膳ね、そこに例えばどういうお粗末なものが出てこようが、どういう山海の珍味が出てこようが、あれこれと、自分であれが飲みたい、これが食べたいと、云うのでなくて自分の前に出される食事そのものを、有り難く合掌して受けよ、神様がいわばあなたの心の健全になることの為に、神乍らに眼の前に据えて下さるのだから、という頂方なのです。
成り行きを大事にする、成り行きを尊ぶというのはそう言うことなんです、こげな物が食べられるか、こげな物は好かん、というて、好き嫌いをするのでなくて、あれが食べたい これが食べたいと、云うのでなくて、神乍らに、眼の前に食膳が並べられる、それを神乍らな頂き物として頂けよと、こう言うことをです、もう、金光教の信心の云うならば、この食物訓、例えばまだ、ほかにもいろいろありますよねけども、この食物訓を頂いても金光教の信心の所謂進め方というか、ここんところが根本として出来なければね、金光教の御信心は分からん、信心が身に、血になっていかない、又、云うならば、これが合楽理念の根本というてもよいのです。
成り行きを大切にする、所謂、全ての事に、御の字をつける、嫌いなこと、嫌いな食べ物であっても、云うなら有り難く頂く心を忘れなよ、嫌いなと思うても、それは、有り難く頂くことによって体の健全が約束されるように、心の健全も又愈々その心の、云うならば健全強化というか、愈々心が豊かにもなりゃ、大きくもなってくるというのです、例えばね、瘠せきれておってから、いくら力業を作ろうとしても、力が出るはずはありませんよね、お相撲さんが愈々人の何倍と食べる、そして愈々肥えて、太っていく、それでいて力業、力を一生懸命だし切っているからああ言う素晴らしい力がつくのです。
心が瘠せ細って、心が小さくて、どんなに大きな願いをかけてもそれは駄目です。おかげの頂けるはずがないです、一合瓶を持っていって一升のお酒を下さいというのと同じです、ちょっとしたことがもう心配、気になってたまらん、ちょいとしたことが、もう、カチッときて、腹の立ってたまらん、それではおかげの頂けるはずは無い、ですから、そういう自分というものを見極めると同時に、これでは大きなおかげは、頂けんと、まずはわからせてもろうて、いよいよ心の健全を願なければならん、愈々豊かに大きくなる事を願わせてもらわにゃならん、それには、いうなら、神様が下さる食べ物を、有り難く頂く心を忘れなよ という生き方にならなければならんという事になります。
昨夜のお説教の中に、正義先生が未だ二十三 四の頃にお母さんが甘木の信心を頂いておられた関係で、自分が体が弱いから、甘木にしげしげお参りさせて頂いた、それでも仲仲日参ということは出来がたいので、親先生にお願いして、近くの教会にお参りすることを、所謂三井教会にお参りすることを、お願いさせて頂いた、その時に先生が、御神米を下げられて、その御神米にお書き下げを下さった、その御神米を肌身離さず持っておるという正義先生が、中近畿の先生方にお話をしておることの中に、その、私は、甘木の先生の教えというものを、頂かせてもろうて、改めて素晴らしい御教えだな、とこう思わせてもろうた、
それにはね「信心は我を殺して直に生まれる」とかいてある。信心は自分、我を殺して、直に生まれる、我を無くする、そこにはすでに信心があるというのでございましょうね、そこで例えば今日の御理解から云うと、あれが食べたい、これが食べたい、ああありたい、こうありたいという我情を捨てよ、我欲を捨てよと、ああ、今日は鯛の刺身が食べたい、今日は親子丼が食べたいと云はないということ、神様が下さるものなら何でもありがたく頂こうという、これは自分の我情、自分の思いをまず捨てておかねばいけません、そして、いうならば、今日はどういう食物が食膳に出されるだろうかと楽しませて頂くような心がいるのです。それが今日は、この食物を食べることが、まあ、いうなら合楽理念の健康管理はそう言うことにもなってくるのです。あれこれと自分の好き嫌いをしよる、それは神乍らに与えて下さるもの、それが医学的には、常識的には、例えば胃が悪い人に、固いものが出てくる場合があるかもしれん、云うなら糖尿の人に甘いものが出てくるかもしれん、腎臓病の人に辛いものが出てくるかもしれない、医学的にはそんなものは食べてはいかん、飲んじゃいかんということなんです、けれども神様の見立ては違う、むしろ毒な物のようなものが食膳に出て参りましても、それこそ、毒薬が変じて薬になりますようにという、有り難い頂方がそこにある。合楽理念をもってする健康管理なんですよ、もう実に微妙な不思議な不思議な働きが、様々な栄養バランスの取れた、これは神様がご覧になるところのものだと信ずる事だとおもうです。
栄養学からくるものじゃないです、神様の栄養学から、云うならば頂くんです、もうそれはね、本当に天地の親神様であることが分かれば分かるほど、それが分かるです。それこそ毒な物、親が食べよというていう親は決してありはしませんです。これをいっちよ毒なもん食べさせて、殺しちやろうという親は、ままかかさんぐらいなもんです。本当の親ならもう絶対毒なものは食べさせてはならん、これが親の心ですだから医学的に栄養学的にいうものとは全然違うです。神様はこの子が健全になるようにと、ね、毒なもの食べよという親はないという確信が生まれてくるですそこに神様が分かり神様を思ういわばどう思うかというと、親神様じゃなあと思うのです。分かるのです、もうこげな問題は嫌だ嫌だと、みみにぎゅう場合であっても毒なものじゃない、それをあなたが頂くことがあなたの心の愈々健全、豊か、力を頂くためにはこれを食べることが神乍らだよというわけなんです。為にはまずは自分の心を、我の心を殺して、直ちに信心は生まれるもんだと、もうそこには、信心がある分けです。これはいかん、これは毒になる、そこにはもう信心はない分けです。何でも有り難く頂く心をもって頂けば、もう、云うならば栄養のバランスはみごとに神様が取って下さるということになる。事柄、日々の生活の上においても、なら、そう言うことになってくる、そこで成り行きを尊ぶこと、成り行きを大切にすることになってくる分けです。私はそれをね、ほんとに食物訓だけでなく、今申しますように心の面にもそれをそうだと思い、もう絶対、親は毒な物を子どもに食べさせようという心はない、神様がこれが憎たらしいからというて 下さることは無いということをね、信ずるということなんです、信心は、ね、  だからこれは云うなら合楽理念の根本ともいえれる御教えだということになります。
今私お話中に頂くことがね、女という字「くの一」、あれは女の忍術使いのことを云うのだそうですね、くの一、そして次に、やはり、ウ冠に女という字をこう頂くのです。どう言うことだろうかと、やっぱり今日の御理解の真になる所じゃないでしょうかね、考えて見て下さい。くの一、次に、安心の安、ウ冠に女、信心させて頂いて、安心の心が生まれてくる、どういう場合でもありがたく頂かれる心の状態、安心の心です。というものは、きよう皆さんに聞いて頂いたような、一つの業というでしょうかね、くの一です、どういう例えば、苦であってもそれを頂きこなすところの、云うならば、変幻自在というですかね、そう言うこと云いましょう 。  
いうならば自由自在に自分の心が使えるようになるということが、人間最高の幸、安心の心の状態というものが生まれてくるんだということだと思うですね、ですから今、食物訓、三つのことを食物だけのことでなくて、私共日常生活の上に心を健全にして下さる「心の健全を願え、そのためには何を食うにも飲むにもありがたく頂く心を忘れなよ」という この三つの御教えを心の中にしっかり頂きとめる ということが変幻自在の心を自由自在に使う心の稽古なんです。そこにもう次に生まれてくるのが安心なんです。ウ冠に女、安心のおかげ、これが真の信心なのです。
真の信心とは安心のおかげを受けることであります。と、三代金光様は教えておられます。その安心のおかげを頂くことの為にです、今日のここの三つの食物訓を愈々、食物訓だけではなくて、日常様々な問題の中にその頂き方が自由自在な頂き方のでけれる稽古をさせて頂くことだということになるですね。           どうぞ。